私は否応無く現実が突きつけられ
日々まーくんが死んだことに対峙して生きています。

でも他の人はやっぱり違う。


心の気持ちのずれ。
時間が経つにつれて、どんどん大きくなるのだろうなと思います。


今はむしろ私の方が現実を受け止めている気がする。
受け止めざるを得ない。
同じように泣いても、それでも私は前を見なくてはいけなくて進んでいかなくてはいけなくて
周りが立ち止まって悲しみに暮れて泣いている時も、泣きながらも歩き始めています。

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私が先頭にいる。まーくんの死を受け止める列の。
ゆっくりでもどんなに足が重くても一番前を歩いているのは私です。


でもいつか、みんなに追い越されるのだと思います。
私はずっと同じ歩みで泣きながら歩いているのだけれど
立ち止まって泣いていた人たちはいつしか心に蹴りをつけて
「進もう!」として颯爽と私を抜かしていくのでしょう。
たまに後ろを振り返り、こんな事もあったねと思いながら。


誰よりも先に自分を奮い立たせて進み始めたけども
その歩みはとても遅く、まーくんの事に蹴りをつける事なんて事も無い。
一生悲しみが絡みついた重い足をひきづって生きていくのでしょう。

受け止めるのも、立ち上がるのも遅かった人たちは
いつしか自分の生活の中で生きている内に、まーくんへの想いは薄れ
そんな事もあったという『過去の出来事』になる。
きっと私にだけの『一生続く出来事』。

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みんながそれぞれ、まーくんのことを受け入れて前に進んで行ってたまに思い出す。
もしくは思い出さないくらいになっていくのに
私はずっと同じ様に泣いているのだと思います。



きっと私が残される。
きっといつまでたっても。



タッチは「それでも、その中でも私は一番最後にいるから、いつでも戻ってすぐに一緒に泣けるから」
と言ってくれました。


今は心を寄せてくれる人たちも、時間が経つにつれて
「あれ?まだ泣いているの?」と思うようになるのだろうな。
だからきっと、泣けなくなるのだろうな。そう思っています。
実際、そのような空気を感じ始めています。


他の人には『昔にあった強烈で悲しい出来事』でも
私には『今現在、強烈に悲しく寂しい日常』なわけだから
時間が経って状況が変わるわけじゃ無い。

ただちょっと心が麻痺して、大丈夫に振る舞えるようになっただけだから。



もうすぐ一周忌。
喪が明けるとされています。
喪中には楽しい出来事やお祝い事を避けるべきとされていたりしますが(これも腹立たしい!)
喪が明けたからって、何かが変わるわけでもありません。
喪中じゃ無いからだから大丈夫!というわけでもありません。


同じまーくんの死を悼む中でも
他の人とは感覚が違うのだろうなと思います。


時間が経てば経つほど、ズレは大きくなって
私だけ取り残される悲しみ。理解されない辛さ。引きづり込むことへの遠慮。
これから待ち受けている一つの苦しみなのだろうなと思っています。


ひとまずタッチは最後尾を行っていると言ったので
遠慮なく引きづり込んで一緒に泣こうと思います。
よろしくな!いつまで経ってもな!!

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